Athens 2004 Paralympic Games
マラソン観戦記
日本選手団結団式・壮行会
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9月10日(木)
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9月19日(日)
アテネ2004パラリンピック観戦記
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9月24日(金)
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9月25日(土)
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9月26日(日)
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9月27日(月)
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9月28日(火)
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9月29日(水)
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9月26日 マラソン応援とアテネ市内観光
古代オリンピックの終焉から1500年の時を経て、近代オリンピック競技大会の第一歩といえる、記念すべき第1回オリンピック大会 は、1896年4月6日ギリシャのアテネで開催されました。
そして2004年9月、約100年の時を経てオリンピックは、再び故郷へ帰ってきたのです。
2004パラリンピックアテネ大会は、9月17日に執り行われた開会式により幕を開けました。
陸上競技注目のフルマラソン競技も、本日26日8時00分に、アテネの北東方向に位置する、マラソン競技の聖地 とでもいうべき、歴史あるマラトン村からスタートとなります。
パラリンピックフルマラソン(視覚障害グループ)競技での、日本選手の記録を振り返ってみますと、1996年パラリンピックアトランタ大会で のフルマラソンで見事金メダルに輝いた柳川春巳選手(当時40歳/伴走安田享平選手)が思い出されますね。
そして四年前のパラリンピックシドニー大会でのフルマラソン競技では、福留史朗選手がT13クラスで2時間47分01秒で5位に 入賞していますし、T11クラスの柳川春巳選手は2時間54分08秒で6位入賞を果たしました。
T12クラスからは、公式記録こそありませんが保科清選手が出場し、見事な走りを私たちに見せてくれました。
そしてシドニー大会から四年が経過。長いようで短く夢のように4年の歳月が過ぎ去ったのです。
アテネ大会のフルマラソンが間もなくスタートするというこの時に、一つだけ残念でならないのは、フルマラソンスタートリストに柳川春巳 選手の名が無いことです(^^;)。
柳川選手は、1992年バルセロナ大会(スペイン)、1996年アトランタ大会(アメリカ)、2000年シドニー大会(オーストラリア) と過去3回連続出場していたのでした。
彼もまたアテネを目指してトレーニングを重ねていましたが、昨年8月アメリカコロラド州での個人的な合宿中、 プールに入ろうとして転倒してしまったのです。
病院での診察の結果、左足の半月板をかなり痛めている事が判りました。
可能性を信じて、アテネへの選考会だけは走っておかないと……。
完治には程遠い足をかばいながらの2003年福知山選考会では、約5時間18分でゴール!。
柳川選手のアテネへの挑戦は終わったのです。
彼は、悔しさで涙が止まらなかったといいます。
悲しいことに、パラリンピック連続出場という夢は、ここに途絶えたのでした。
しかし、枝を折られた草木も再び脇芽が伸びて枝葉を大きく展開するように、彼もまた北京選考会では強力なライバルとして、 私たちの前に立ちはだかる……。
これが私の揺るぎない確信です。
ここで、2004パラリンピックアテネ大会に集う視覚障害グループの、空前絶後かつ史上最強の(^^;)日本選手メンバー4名を紹介しましょう。
フルマラソン(視覚障害)グループには、T11クラスの保科清選手(伴走沖山健司選手)・高橋勇市選手 (伴走中田崇志選手/神原淳一選手)、そして福原良英選手(伴走安田享平選手)の三選手。
そしてT13クラスからは、シドニー大会にも出場したベテランの福留史朗選手が出場します。
彼ら四選手は、アテネで完全燃焼すべく何年も前から、過酷なトレーニングを重ねて参りましたね。
各選手のアテネに向けてのトレーニングは、実に多様な方法で競技力を向上させてきました。
高橋選手も中田選手や神原選手、そして伴走メンバーと共に、長野県の高地で合宿を重ね、山岳地帯のアップダウンでの走り込みに重点を置き、トレーニングを重ねてまいりました。
マラソン発祥の地アテネのフルマラソンコースで、各選手は長い歳月積み重ねてきた汗と涙の結晶を、42.195kmの中で存分に発揮して頂きたいですね。
近代オリンピック発祥の地アテネ……。
野口みずき選手が素晴らしい走りを見せてくれた、このフルマラソンコース……。
パラリンピックでも、車椅子選手も含めた我が日本選手団は、私達に感動の走りを見せてくれるのか!!。
沿道に出て応援する私達も胸がワクワクしてきましたよ~(^o^)。
それでは、ここでフルマラソン(視覚障害)グループに出場する選手と伴走選手の紹介をしてみましょうね(^o^)。
(選手紹介)
〔T11〕保科 清選手(57歳)/沖山健司選手[伴走]保科清選手は、二度目のパラリンピック大会参加となります。
一度目は、四年前のパラリンピックシドニー大会のフルマラソン競技に参加しました。
シドニー大会ではフルマラソンに出場しましたが、スタジアムに帰ってきてゴールまで残り100メートルのところで、脱水 症が原因と思われますがフラフラと蛇行したかと思うと、転倒してしまい立ち上がれなくなってしまいました。残念ながら伴走者に抱えられて立ち上がる以外に選択肢はありませんでした(^^;)。
保科選手は、悲しいことにシドニー大会では、公式記録を残すことが出来なかったのです……。そのままゴールしていれば、2時間40分台の好記録が見込まれましたので、保科選手も落胆の色を隠せませんでした。
そういった経緯もありアテネ大会では、シドニー大会の雪辱を果たすべく、万全なトレーニングを重ねて参りました。
近代オリンピック発祥の地アテネで、どのような走りを私達に見せてくれるのか楽しみですね(^o^)。
沖山健司選手は、ウルトラマラソン界では名を馳せていますよね(^o^)。
ホームぺージ内には、ウルトラマラソンなどのランニングに関する情報が満載されています。
特に必見なのが、沖山選手の今までのウルトラマラソン走歴が記載されているコーナーですね。1990年の初頭からの大会参加記録 が網羅されていますよ(^o^)。
御存知の方も多いと思いますが、奥様もウルトラランナーなんですよね。
そして奥様の実力もまた沖山選手と同じように日本トップレベルです。
ご夫婦で、日本のウルトラマラソン界を引っ張っているといっても過言ではないでしょう。
最近はウルトラマラソン大会を企画・運営するなど、沖山選手の活躍の場が更に広がっていますね(^o^)。
(選手紹介)
〔T11〕高橋 勇市選手(39歳)/中田崇志・神原淳一選手[伴走]高橋勇市選手は、はじめてのパラリンピック大会参加となります。
出場種目は三つで、5000m、10000mそしてフルマラソンにエントリーしています。彼は、パラリンピックシドニー大会参加を目指して、トレーニングを重ねていましたが、シドニー大会参加の為の国内選考会 を目前に疲労骨折していまい、選考会すら走れない結果となりました。
あれから4年、パラリンピックアテネ大会の国内選考会で、2時間40分30秒の日本記録更新というおまけ付きで優勝し、 見事アテネ大会のキップを手にしたのでした。
そして、パラリンピック大会年である2004年4月18日に開催された、『第14回かすみがうらマラソン大会兼国際盲人マラ ソンかすみがうら大会』では、後にIPC国際パラリンピック委員会から世界最高記録として公認された、2時間37分43秒 の好記録をマークし、波に乗ったハイテンションの中でのアテネ大会参加となりました。
世界の強力なライバルが複数走る中で、彼はどこまで日本の意地を見せてくれるでしょうか(^o^)。
前半伴走の神原淳一選手は、東京国際マラソン大会の参加資格を持っており、市民ランナーではトップレベルの 走力を誇っています。
現在アトミクラブ練習会にも頻繁に来て頂き、高橋選手とインターバルトレーニングに励んでいます(^o^)。伴走経験年数は短いのですが、高橋選手の伴走をする事にかなりこだわっており、あっという間に伴走ノウハウを身に つけてしまったほどです。
アテネフルマラソンでは、前半伴走をする事になっていますが、彼は上手く後半につなげる伴走をしてくれる事でしょう。
後半伴走の中田崇志選手は、大学卒業後は実業団アスリートとして活躍していましたが、現在は冒頭で紹介した『関東RC』というクラブチームを 主宰しています。
彼は長距離系の陸上競技と共に、『デュアスロン』という自転車と長距離走を組み合わせた競技の二つを主軸として大会 参加を続けています。
2003年 日本デュアスロン選手権 4位、2004年 カーフマンジャパン 2位に入賞するなど、日本代表チームに何度も選出 され、海外のワールドカップデュアスロン選手権などで戦い続けています。
昼間はサラリーマンとして仕事をやり、トレーニングは夜の11時から始めるそうですから、その精神力には驚きですよね。
(選手紹介)
〔T11〕福原 良英選手(36歳)/安田享平選手[伴走]福原良英選手は、パラリンピックに初参加です。
フルマラソンの他10000mにもエントリーしています。
福原選手は2002年に開催された、第3回IPC世界陸上選手権2002(in リール・フランス)でのフルマラソン競技では、 あのポルトガルのカルロス・フェレリア選手を振り切っての、銀メダルを獲得していますよね(^o^)。
福原選手のアテネへの戦いは、2003年4月から始まっていました。
彼は毎週のように、土日は千葉県の君津に向かいましたよね。
それは、福原選手のコーチ役も兼ねる伴走の安田選手とトレーニングをする為だったのです。
11月23日に開催される福知山マラソン兼アテネパラリンピック派遣選手選考会に向けて、二人で過酷なトレーニングを 重ねたのでした。
その壮絶なトレーニングの経過や、途中で出場した大会参加記などが記されたコーナーが、彼のホームページ内に掲載 されています。
選考会以降も、アテネに向け二人三脚の激しいトレーニングを重ねてまいりました。
福原選手の好きな言葉“完全燃焼”をアテネで果たすことが出来るか!。
伴走の安田享平選手といえば、柳川春巳選手との関わりから入らなければなりませんね。
1996年パラリンピックアトランタ大会。フルマラソンで金メダルに輝いた柳川春巳選手(当時40歳)の伴走者でした。
ですから、視覚障害者ランナーの伴走はかなりの経歴を持っているという事になりますね。
2000年のパラリンピックシドニー大会でも柳川選手の伴走で出場し、あの難コースで見事6位入賞を果たしました。
三度目のパラリンピックでの伴走となるアテネ大会では、福原選手の伴走となりますが、“世界”を知っている安田選手が、 レースをどの様にコーディネートするか楽しみですね(^o^)。
安田選手の個人的ホームページはありませんが、現在関東身体障害者陸上競技協会のホームページ内に、彼専用の日記コーナー が設けられていますのでご覧下さい。
彼のマラソンに賭ける熱き思いが伝わってきますよ(^o^)。
(選手紹介)
〔T13〕福留 史朗選手(47歳)[単独走]福留史朗選手は、パラリンピックシドニー大会に続き、連続出場となりました。
前回のシドニー大会では、保科選手・柳川選手と共にフルマラソンに出場し、彼は2時間47分01秒で堂々の5位入賞を果たしましたよ(^o^)。
彼のフルマラソンでの自己ベストは、第32回防府読売マラソン大会での2時間39分02秒です。
T13クラスでも40分切りしている選手は、世界でも数人しかいないので、世界トップレベルの走力を持っていると いえるでしょう。
実業団選手並の走り込みと、ランニングに関するノウハウが豊富で、この両輪を上手くかみ合わせれば、アテネでも 素晴らしい走りを私達に見せてくれるかもしれません。
彼の走りに注目ですね(^o^)!。
福留選手は、PAJ本パラリンピアンズ協会の理事に就任しており、障害を抱える選手達の練習環境や、公的なサポート などに関して、世界と戦える環境の整備に向けて彼の手腕に期待したいですね。
「アテネ・パラリンピック、マラソン代表選手・保科清さん/長野」
【毎日新聞】平成16年9月11日
今度こそ記録残したい--マラソン代表選手(陸上)、保科清さん(57)=臼田町
17日に開幕するアテネパラリンピックのマラソン種目(視覚障害で最重度のT―11クラス)に、日本代表として出場する。
パラリンピック出場は、00年のシドニー大会に続いて2度目。狙うのはメダルでも自己ベストでもない。ただ、あの「悔しい記憶」を塗り替えるためだ。「大きな舞台で、記録を残したい」
先天性の病気「網膜色素変性症」で、両目とも静止している物はほとんど見えない。
マラソンを始めたのは14年前。初めはあくまで「健康のため」だったが、走り終えた時の「何とも言えない達成感」にのめり 込んで、数々の競技会に出場するようになった。「終われば引退」と、心に決めて臨んだ00年シドニー大会。余裕のある走りはしたくなかった。
だから伴走者に「ペースが落ちないよう、追いこんでくれ」と頼んで走った。観覧席の下をくぐる形で陸上競技場へ入ると、足がガクガクと震え始め、残り80メートルで倒れてしまった。
伴走者に支えられて立ち上がり、何とかゴール。6番目だったが、伴走者に手を添えられたことで「失格」になり、記録は残ら なかった。「もう1回、挑戦します」。練習につきあってくれた職場の同僚、心配しながら温かく見守ってくれた家族――。
支えてきてくれた人たちの前で誓った言葉を胸に、再び厳しい練習を積んで、アテネ大会の出場権を勝ち取った。「最後の大会」で足跡を刻みに11日、日本を出発する。
【反橋希美】
「稲穂色のメダル取る アテネパラリンピック出場の高橋選手=秋田」
【読売新聞】平成16年8月11日
アテネパラリンピック(九月十七―二十八日)でマラソンなど三種目に出場する横手市出身の高橋勇市選手(39) (東京都北区)が九日、県庁に西村哲男副知事を表敬訪問した。
高橋選手は、金メダルを意識して染めたという金髪姿で登場。
「あきたこまちの稲穂のような黄金色のメダルを獲得し、故郷に錦を飾りたい。世界最高記録でゴールしたい」と抱負を語った。西村副知事は「秋田県の誇りです。健康に気をつけて、是非金メダルをおみやげに持ってきてください」と激励した。
高橋選手は大曲農業高校二年時に、白点状網膜炎を発病。徐々に視力が低下し、一九九九年に全盲となった。
このころから本格的に競技を始め、二〇〇三年二月の勝田全国マラソン大会(茨城県ひたちなか市)で2時間45分23秒の 日本記録を樹立。今年四月の国際盲人マラソンかすみがうら大会(同県土浦市)では、2時間37分43秒の世界新記録(公認申請中)で 優勝した。
千五百メートル、五千メートル、一万メートルでも日本記録を所持している。
パラリンピックは初出場で、マラソンのほか五千メートル、一万メートルにも出場する。
※サイト管理者注記:
高橋選手のか すみがうら大会の記録2時間37分43秒が、同年9月 IPC国際パラリンピック委員会により世界記録として公認されました。
「アテネパラリンピックでマラソンなど出場 福原さん、県盲学校で壮行会=福井」
【読売新聞】平成16年7月17日
「完全燃焼で金メダル狙う」 マラソン、1万メートル出場の福原さん
県立盲学校の卒業生で、アテネパラリンピック・視覚障害者の部のマラソンと一万メートル走に出場する会社員福原良英 さん(36)(東京都三鷹市)の壮行会が、同校で開かれた。
同校OBでは初のパラリンピック代表で、生徒や教職員ら約七十人から大きな拍手が送られた。
小谷正典校長が「マラソンが行われる九月二十六日は本校の創立九十周年記念式典の日。
健康に気を付けて金メダルを目標に、悔いのない試合をしてほしい」と激励。生徒会長の高等部普通科二年高山しのぶさん(17)も「私たちも自分が打ち込めるものを見つけるので、良い結果を残せる よう頑張ってください」とエールを送った。
生徒代表から花束を贈られ、福原さんは「大好きな言葉は『完全燃焼』。これから二か月間、完全燃焼し、皆さんのパワー をもらって金メダルを狙います」と抱負を語った。
二十六歳で本格的に陸上を始め、昨年の関東選手権一万メートルで優勝。全日本盲人マラソン選手権で二位になり、代表に 選ばれた。九月十九日に一万メートル、二十六日にマラソンに出場する。
「福留史朗さんマラソン代表に アテネパラリンピック/鳥取」
【朝日新聞】平成16年4月27日[許諾NO.20042413]
ギリシャで9月に開かれるアテネパラリンピックで、マラソンに出場する日本代表の1人に、NTTマーケティングアクト 東中国米子支店に勤務する福留史朗さん(46)=大山町上万=が決まった。
2000年のシドニー大会に次ぐ連続出場となり、「しっかり調整してベストを尽くしたい」と意気込んでいる。
出場するのは、弱視・伴走者なしのクラス。
02年11月に京都府福知山市で開かれたマラソン大会で2時間39分06秒を記録するなど、実績が評価された。
前回のシドニー大会では2時間47分01秒のタイムで、11人中5位入賞を果たした。
米子北高校時代は800メートルや1500メートルの中距離が専門だった。しかし、30歳を過ぎて緑内障を患った。
視力は徐々に低下し、現在は眼鏡をかけても左が0・03、右は0・04。「1、2メートル先がぼんやり分かる程度」という。
病気がわかってからは何をやっても面白くなく、陸上競技も長い間やめていた。だが、会社の上司の勧めで訪れた埼玉県内 のリハビリ病院で、自信を取り戻した。
「陸上を再開するならマラソンがいいと思った。パラリンピックは知っていたし、自分が出るならマラソンしかないと」
出勤前に自宅周辺を約10キロ、仕事の後も米子市内の湊山公園周辺を15キロ程度、ランニングするのが日課だ。
はっきりとは見えないが、風景を覚えているので不安はない。
アテネには9月中旬、出発する。この春、高校に進学したばかりの長女、陽穂さん(15)が心の支えだという。
「父親が障害者ということで、娘に心を痛めてほしくない。一生懸命に走って、自分にだってこんなことができるんだという ことを伝えます」と、抱負を語った。
9月26日、いよいよフルマラソンがスタートする日です。
私たちは朝5時には起床して、6時にはバスに乗れるように準備を開始しました。
朝食をとる時間はありませんので、ホテルに依頼して朝食お弁当を作って頂きました。
天気予報では晴れ時々曇りといった感じで、ここ数日と同じような気象状況で、日中は晴れて気温もかなり上昇するとみて間違いなさそう ですね。
オリンピックでのフルマラソンがあった頃と比較すれば、かなり気温が下がってきていることは間違いなさそうですが、それでも 連日日中はかなり暑さを感ずる毎日でした。
フルマラソンを走るには、まだまだ暑く感ずる気温でしょう。
私たちの応援団そして会社からの応援団と綿密に連携しており、路上での応援態勢は昨日までに十分話し合われており、今朝は その予定に従って行動するのみとなっていますよ(^_^)v。
高橋選手の会社の応援団とも十分に作戦会議を持ち、重複して応援することのないように、そして出来るだけ走路に長く分散 するように注意しながら人員を配置したという訳ですね。
24日夜に競技のあった5000mをリタイアして私たちを慌てさせた高橋選手も、その後十分なケアと治療を続けた結果、アキレス腱 の違和感は相変わらずありますが、少なくともリタイアなどの最悪の状況は避けられる見通しとなっています。
それに、私たちは高橋選手自身からも、どのような痛みやアクシデントがあろうとも、最後まで走り抜くという強い決意を聞いています。
高橋選手を伴走する二人の選手は、アスリートとしてトップレベルの走力と見識を持っていますし、コミュニケーションを密に して選手村でも対応してきたので、コース上で万が一高橋選手にアクシデントが発生しても、きっと彼らが最善の対応をしてく れるものと確信しています。
沿道でのフルマラソン応援に出発
私たちは、マラソンルート上の応援ポイントに迷わず到着出来るように詳細な地図を持参します。
そして、肝心の“応援グッズ”もそれぞれ身にまとえるだけまとって出発しますよ(^o^)。
こうして見ると、ひとつ確信できるのは、多くの応援団のなかで最も目立つ応援が出来そうだという事ですね(笑)。
私たちは、大まかに三つのグループに分かれて行動することになっています。
1,御両親などゴールのパナシナイコ競技場に直接向かうグループ。
2,パス利用で8km付近の応援、その後パナシナイコ競技場に向かうグループ。
3,地下鉄『Palini Station』まで行き、そこから走って20km付近で分散応援。
(このグループはパナシナイコ競技場でのゴールシーン応援は断念)
1,については、当初の企画では御両親や御家族の方々にコース途上で一カ所以上、すぐにゴール地点に向かいゴールでも待ち受け応援 するというパターンを想定していました。
しかし、このアテネはコースに並行して主要幹線道路が走っておらず、かなり遠回りのルートしか確保出来ない事や、裏道の主 要道路もかなり混雑している事、アテネオリンピック時の道路混雑状況の前例などを参考に検討した結果、御両親 や御家族はゴールだけ応援していただくことにしました。
2,のバスを利用して8キロ付近に向かうパターンは、伴走の神原選手のお母様が主体となり数人が向かうことになります。
神原選手のお母様には、ぜひ我が子の晴れ姿を応援していただきたいですからね(^o^)。
3,は健脚メンバーで構成しています。
地下鉄・鉄道を乗り継ぎ駅を出たら、数キロは自分の足で走って所定の応援ポイントに向かうからです。
このグループは、応援が終了した後も所定の地下鉄駅までは自力で走り、そこからゴールのパナシナイコ競技場に向かいます。
ゴールシーンは見ることが出来ないので、沿道での応援に全力を出していただきます(^^;)。
また、私達の応援メンバーの他に高橋選手が勤務している会社の応援団も別途私達と重複しないような場所で応援する手はずとなっています。
慌ただしい朝は、私たちが会社応援団と会うことはありませんが、ゴール地点のパナシナイコ競技場では合流して大声援で高橋選手 をゴールシーンを見守る手はずとなっています。
私達の応援団は、ゆとりを持った行動が出来るように、朝6時にホテル出発を予定していました。
しかし、どうした訳かバスがいっこうに到着しません(^^;)。
現地日本語ガイドのIさんもしきりに携帯電話で連絡をとって状況の把握を急いでいますが、私達にはバスが遅刻している理由 などの説明はしてくれていません。
これがギリシャ式のバスの送迎かなどと自嘲気味に肩をすくめても、時間は待ってくれません。
そうこうしている間にやっとバスは来ました……。
ギリシャ人の運転手は、予想通りと言うべきか、遅れて来ても恐縮している素振りもありませんでしたね(笑)。
待っている間に朝食のお弁当を食べ始めた人も出てきましたので、急いでそれらも片づけてバスに乗り込みました。
朝食はホテルが洋食的なお弁当を準備してくれたので助かりました。
私たちは、着替えや応援グッズがたくさん詰まったリュックサックを背負い、日中はかなり暑くなりそうなので、応援途中 で飲む飲料水は各自しっかりと準備して、バスに乗り込みました。
リュックサック以外に、更に手にも紙袋に詰め込んで持っている人もいましたね~(^o^)。
メンバーの服装はといえば、御両親などは普通の服装ですが、健脚のランナーが多いせいか、ロングタイツなどの走る姿で乗り込むメンバーもかなりいました。
マラソンスタート後4km付近、マラトン村にある『マラトン戦士の塚』です。紀元前490年、アテネに向け進軍してきたペルシャ軍とアテネ軍が戦った場所です。アテネ軍の戦没した歩兵が祀られています。フルマラソンでは、選手はマラトン塚を右に見ながら周回していきます。
【写真提供Yさん】
フルマラソンのスタート時刻は、まず最初に車椅子選手がスタートしますが、8時00分が予定されています。
そして視覚障害者などが8時01分にスタートするようです。
私達の出発時刻が遅くなったために、予定していたバスの運行ルートを微調整しなければならない事態に追い込まれてしまいました。
あまり遠回りして応援メンバーを降ろして行くと、最終目的地の8キロ地点に到着する時刻が、大幅に遅くなると心配されたか らです。
8キロ地点に行くメンバーと、現地日本語ガイドのIさんとで時計を見ながら、慎重に判断していくという事にしました。
まずは私も含めた地下鉄利用のメンバーが、3号線シンタグマ駅前で下車しました。
バスを降りたら、ただちに地下鉄電車に乗るべくホームへ向かって、全力疾走で走り出しました。
すでに何度も地下鉄には乗っているので、方向さえ間違わなければトラブルもなく移動出来るはずです。
私達は慌ててはいますが、このような慌てる事態は嫌いではないですね(笑)。
走る服装ですし、そう重たい荷物を背負っているわけではありませんので、走ることの好きな私達にとっては歩いて移動する のよりは軽快で楽しいかもしれませんよ(^^;)。
私たちは、地下鉄Syntagma駅(シンタグマ駅)より8駅目のDoukissis Plakentias駅で、Suburban Railwayに乗り換え一駅目のPalini駅で下車 しました。
改札を出て見ると、駅前に走る幹線道路がマラソンコースとなっていました(^o^)。
道路にはオリンピックの時にもありましたが、水色をした幅10センチ程度のマーカーが一本延びていました。
このPalini駅前はスタート地点から概ね28キロ付近だと判断しています。
ここからゴールに向かって配置するメンバーが2人居まして、そのメンバーはゴール方面に向けて走り出しました。
私も含めた4人が、これからスタート地点方面に逆走し、一番走る人で8キロ走り、20キロ地点まで到達する予定です。
この時刻ではまだ道路は完全に閉鎖されておらず、車両もまだ走っている事から、私達は歩道を主体に走りを進める事にしま した。
コースを逆走していると、マラソン給水所に出くわします。
各給水所では、大勢のボランティアスタッフが準備をしていました。
先を急ぐ私達ですが、積極的に“ハロー(^o^)”とか“こんにちわ(^o^)”と声をかけながら走りましたので、気がついた人たちは 手を挙げたり、声を出したりして返してくれました。
逆走しながら、最も驚いたのは歩道が未整備の箇所が圧倒的に多いという事ですね(^^;)。
N見さんがコース試走をやった時に、とにかく歩道が完成しておらず、土や石でデコボコだし段差も激しく、捻挫しないように 注意しながら走らなければならないし、靴が土煙 で赤茶けてしまったと残念がっていましたので、私達もある程度は覚悟はしていましたが、想像以上のひどさにとにかく驚き ました。
歩道はいたるところで “未完成” 捻挫しないように慎重に走りを進めます。道路面にマラソンコースであることを指し示すブルーラインが見えますね。
一緒に走っていた応援メンバーも順次配置につくため離脱して、25キロ地点あたりになると、私とN見さんの二人になりました。
まだ3キロしか走っていませんが、悪路の歩道を走ったり道路部分を走ったりで気が抜けず、精神的にはかなり辟易しだしてい ました。
“あと5キロは走らなければならないですね(T_T)”などと会話しながら走りを続けました。
N見さんは、道路部分は車がビュンビュン飛ばすのでとても危険ですから、この未完成な歩道部分を走りながら、フルマラソン 全コース試走を2回敢行したわけですから、そのご苦労と疲労度が偲ばれました。
少なくともマラソンシューズ一足はご臨終のようです(^^;)。
スタート時刻の8時も迫ってきて、警備のための警官もかなり目につくようになりました。
歩道に上がれという指示を出す警官もいれば、同僚と話し込んで私達が道路を走っていても関心を示さない警官も居たりして、 かなりギリシャの警官はアバウトな意識だなと感じました(^^;)。
私達は従順に警官の指示に従う“ふり”をして、出来る限り“安全な”道路部分を走るように努めました(笑)。
22キロ地点を通過してしばらく走ったところで、現地日本語ガイドのIさんが私達に声をかけてきました。
私はN見さんと顔を見合わせました。私たちは驚きを隠せませんでした!
応援メンバーを乗せたバスは現地日本語ガイドIさんと共に、8キロ地点に向かったはずです。
なぜ21キロ地点付近にいるのか理解出来ませんでした(^^;)。
聞けば、バスの運転手が“あんなところまで行ったらゴール時刻には帰ってこれなくなる”と語ったというのです。
そしてもっと近くで応援したほうがよいと語る運転手の“固い決意”により、当初の予定を変更せざるを得ず、この場所にバス は到着して、神原選手のお母さんを含む応援メンバーは、ここからコースを逆走しているというのです。
私は“エ~~そんな大事なこと勝手に決めないで下さいよ~”とつい語気を強めてしまいました(^^;)。
そういう気持ちになってしまったのも、前半伴走の神原選手のお母様に彼の伴走している姿を見てもらうには、どうしても 8キロ地点に行っておく必要があったからでした。
すでにメンバーは走り去った後なので、今更どうする事も出来ません。
私達は走り出しているメンバーが、目的とする場所に到達できる事を祈るばかりでした。
私とN見さんは、思いもよらない事態に動転しながらも、現地日本語ガイドIさんとも別れて、更に逆走していきました。
そしてとうとう20キロ地点に到達したのです(^o^)。
10キロに満たない距離なのに、本当にしんどい思いをして到達しましたが、スタート時刻も迫っており気を抜く暇もありま せん。
後半伴走の中田選手がどこかで待機しているはずですから、私たちは彼を捜しました。
アップをしている最中の中田選手を、私たちはすぐに見つけ出すことが出来ました。
ハーイと手を挙げると、中田選手がすぐに笑顔で答えてくれました。
“調子はどうですか?”と問いかけると“調子はよいですよ”と答えてくれました。
そして高橋選手の調子も上々だと語りました。それは何よりも嬉しい回答でしたね(^o^)。
中田選手としばし雑談をしてから、彼はアップのためその場を離れました。
20キロ地点とその先の給水所 高橋選手のスペシャルも置いてあります。
後半伴走の中田選手が待機する20キロ地点にある伴走者交代場所です。このエリアで前半伴走の神原選手と中田選手が交代する事になります。
私はずいぶんと前から、走路上で応援する場所はここしか無い!と決めていました。
そうです。この20キロ地点と言うことですね。
後半伴走の中田選手を、一人寂しく待機させるわけにはいかないというのが私の考えでした。
その目論見通り、私とN見さんは出来る限り彼を励ましました。
私達がこの場所に応援に来ましたよという事だけで、中田選手は“頑張って伴走するぞ”という思いを強くしていただいたので はないかと自負しています(^o^)。
途中でバスを降りた神原選手のお母さんや、Iさん、SさんやHさんなど4人は、20キロ地点に居ませんでした。
という事は、更にコースを遡上していると考えられます。
でもここまで来れば神原選手のお母様も、コースのどこかで我が息子の晴れ姿を見ることが出来ますので、当初の目的は十分に 達成されると確信できました。
フルマラソンがスタート!
応援団に手を振りながらスタートしていく保科選手と伴走の沖山選手です。高橋選手と前半伴走の神原選手の姿も見えますね。
【写真提供OKIさん】
スタート時刻の8時となりました。まず車椅子選手がスタートしました!。
そして8時01分、続いて視覚障害者選手などがスタートしました。
日本選手は、海外のライバルとどのような戦いを演じてくれるのか!
天候は晴れ時々曇りといった感じですが、気温がかなり上がって来ていますね(^^;)。
風は微風という感じで、タイムに影響を与えるほどではない印象です。とにか“坂道と暑さ”の戦いになりそうですね。
まずは各日本選手が、無事に私達の前を通過してくれることを祈るばかりです……。
「15km地点」
HさんとSさんは、デコボコな歩道を走り抜き、なんと15km地点まで到達しました。あの悪路のなか…。これも金メダル級の快挙ですよ~。(^_^)v
【写真提供Hさん】
JAPANブースの日本選手スペシャル! それぞれ目につくように工夫していますね。
【写真提供Hさん】
《 第2集団 》15キロ地点を力走する高橋選手やカルロス選手、ジョセフィー選手!。
【写真提供Hさん】
刻々と進む時計の針を見やりながら、どのような順位で通過していくか……。
少しずつワクワクドキドキ……。
自分が競技に参加している訳でもないのに、心臓の鼓動が大きくなってきました(^^;)。
ここに到着するにはまだ相当時間がかかることは判っていますが、何か胸が高鳴ってきますね。
“とうとうフルマラソンがスタートした!”そして間もなく選手がやってくる。
そう思うだけで胸が熱くなってきました。私の内なるマラソン魂が燃えてきました!。
“高橋選手をはじめとして、福留選手・保科選手・福原選手それぞれ実力を出し切って完全燃焼してもらいたい、
また他の車椅子の日本人選手も共に頑張ってほしい!”
もちろん、日本選手だけにこだわるのでなく、外国選手も含めて目の前を通過する選手全員を、しっかり応援しようという気持 ちも当然強くあります。
私は20キロ地点に到達した後、最高の応援が出来るように、まず応援場所を探すことから始めました。
ここ20キロ地点の給水地点は、路面が水平ですが少し先に行くと急な上り坂となっているので、私は給水所を過ぎた坂道の 途中で応援する事に決めました。
距離としては、20.5キロ地点ぐらいの場所でしょうか。
撮影のためにカメラもしっかり準備して、早々と応援態勢は出来上がりました。
そうこうしている間に、トップ選手の前を進む先導者数台の車両が、遠くに見えてきました(^o^)。
車椅子のトップを走る選手が近づいてきているようです。
先導車が通過してしばらくすると、トップを走る車椅子の選手がやって参りました。
凄いタイムですね。前半は坂道も少ないとはいえ、40分ちょっとしか経過していません。
余りの速さに驚きを隠せませんね。
トップを走る選手は、必死に目の前の坂を登っていきました。
私も最大限の応援をして、選手を見送りました。
トップ以降いくら時間が経っても次の選手が見えませんでした(^^;)。
トップの選手は、断トツの早さで通過していったという事が判ります。
かなり間が空いて、二位以降の車椅子選手が続々と通過していくようになりました。
日本選手もその中に混じって、次から次に通過していきます。
「20.5km地点」
車椅子トップは単独走で断トツでした!。写真は二位以下の第二グループを形成する選手達です!。
T54 NO.1616廣道選手です。険しい表情をしていますがまだまだ気合い十分です。800m銅メダルに続き、二個目のメダル獲得なるか。頑張れ。!
T52 NO.1630高田選手です。すでに400mと5000mで金メダルを獲得しています。三個目のメダル獲得なるか!。ジグザグ走法で急坂を上っていきました。
T52 NO.1618伊藤選手です。病気が悪化し直前まで入院していましたが、強い闘争心をもってアテネに来ました。写真では表情が見えませんが必死の形相で頑張っています。頑張れ伊藤選手!。
フルマラソン女子の選手も頑張っています。目の前の急勾配な坂を、歯を食いしばりながら車輪を回していきます。頑張れ。
車椅子選手が次から次へと通過していきますが、男子に混じって少しずつ女子選手も増えてきました。
目の前の坂道を直線的に駆け上がっていく選手、中にはジグザグに坂を上り、疲労を溜めないようにしている選手も何人かいました。
いずれにしても、上り坂は車椅子選手にとってはとにかく辛抱辛抱で登る以外手がありません。
下を向いているので顔の全てが見えるわけではありませんが、全ての選手が必死の形相でホイールを回し続けています。
20.5キロ地点の長い上り坂の厳しさと共に、時刻の経過と共に気温グングンと上がり、暑さが容赦なく選手を苦しめている ようです。
私も立っているだけで汗が噴き出しています。
車椅子選手の多くが通過して時折選手が通過する程度となり、路上の戦いも一息ついたかに思える頃、今度は視覚障害者の 単独走の選手が姿を見せてきましたよ(^o^)。
すでにどの選手も汗びっしょりとなっていましたね。
各選手の表情も、まだフルマラソンの半分しか走ってないというのに、苦痛に顔がゆがんでいます。
30キロを過ぎれば下り坂になるという思いを頼りに、この厳しい坂道に挑んでいるのかもしれません。
何人かの単独走が走り去っていった後、遠くに伴走者と共に走ってくる選手が見えだした。
T11クラスのトップ集団は、残念ながらポルトガルのカルロス選手など外国勢でした。
しかし、そう距離をおかず高橋選手がやってきました(^_^)v!!。
カルロス選手などとの距離は目測で50メートルは無かったように思います。
追い越すチャンスを伺っているのではないかと思えるほどの近さです。
これぐらいの差なら、追う選手のほうがかなりリラックスして走れるはずです。
私の声を大にしての応援に、交代したばかりの中田選手は余裕で、笑顔を私に返してくれました。
高橋選手は苦しそうにも見えるましたが、平常心を失っておらず、前に行こうとする強い意志を持っていると感じました。
もちろん自分が今何位を走っているかは承知しているはず!。
思えば、高橋選手はアテネに来るまでイヤと言うほど坂道トレーニングを重ねてきた。
必ずやまだまだ続く上り坂で、先行する外国選手を捉えてくれるに違いないと確信しています。
それに、高橋選手は暑さに強い!。
これは、伴走メンバーの誰もが知る高橋選手の特徴なのです。
応援出来るタイミングはほんの十数秒でした。私は最大限の声援を送りました!。
私が選んだこの応援場所は、歩道の路面が最悪なので追いかけて応援する事はほとんど不可能な場所なので、少し移動しただけ でしたが高橋選手が遠くに行くまで声援を浴びせ続けました。
必ずや聞こえているに違いないと信じて……。
しばらく経過すると保科選手と福原選手・福留選手がやってきました(^o^)。
その後ろには福留選手も走っていました。
保科選手も長野の山々を縦横に走り、坂道に対応したトレーニングを重ねてきました。
シドニー大会での雪辱をこのアテネで晴らそうと、もの凄い走行距離を走り抜きました。
彼は間違いなくキッチリと、納得いく走りを私達に見せてくれるに違いないし、彼自身も正にそのつもりで居るはずでした。
各選手は例外なく、この暑さの中で汗ビッショリとなっており、表情も苦しそうでした。
伴走の安田選手や沖山選手さえも限りなく汗をかいており、表情も険しいものがありました。
安田選手と沖山選手は、全コース一人で伴走しなければならないので、如何なるアクシデントも乗り越えなければならないと 覚悟を決めているはずですね。
私は、集団で来た彼らにあらん限りの声を出し、声援を送り続けました。
各選手がかなり遠くに走り去、聞こえなくなっても声援を叫び続けました。
20.5キロ地点をまずT13クラスの選手数人が通過 汗が顔から吹き出ていました。
20.5キロ地点を力走する高橋選手 誰よりも坂道トレーニングを重ねてきた 頑張れ!。
保科選手・福原選手が一緒に通過です まだまだ行ける頑張れ!。
伴走の安田選手と沖山選手も頑張って!。
視覚障害グループ4人全員無事に通過していきました(^_^)v。
彼らの頑張る姿を見送った後も、時折車椅子選手も含めて続々と選手が通過していきましたね。
パラリンピックといえども、視覚障害グループにしろ、車椅子グループにしろ、相当な差があることを実感する事が出来ました。
私は、20キロより先で応援しているN見さんが再びここに来て合流して帰路につくべく、目の前を通過する選手に声援を送り 続けました。
しばらくすると、N見さんがこっちに向かって歩いてきました。
N見さんだけでなく、神原選手のお母様やIさん親子の姿も見えました(^_^)。
どうやらN見さんは、応援している間に合流出来たようでした。
一緒にワイワイと喜びの会話をしながらこちらに向かって来ます。
合流したトタン、皆の顔は笑顔で満たされていました(^_^)v。
私は高橋選手を始めとする日本選手全員が、良いポジションで通過していったことを喜びました(^o^)。
高橋選手は必ずや勝利してくれると確信を持ちながら……。
応援団は、各ポイントで応援後、再度合流したら皆がこの笑顔ですよ~~(^o^)。
右側から神原選手のお母さん、I さんの娘さん、I さん、そして私です。
神原選手のお母様は、大満足の様子でした(^o^)。
きっと神原選手の素晴らしい伴走シーンを応援出来たのでしょう!。
今ここに集まっているメンバーで、一番快活なのは神原選手のお母様でした(^o^)。
神原選手のお母様は、とにかく嬉しそうに喜びを表現していたし、私たちは帰路につきながらも、時折通過する選手に声援 を送り続けましたが、最も大きな声で、暖かくそして心のこもった言葉の声援を送り続けていたのもお母様でした。
お母様は「選手の早い遅いに関係なく、全ての選手を応援したい」と語る暖かい心持ちの人でした。
21キロ地点付近まで応援しながら歩いてきましたが、この付近でバスを降りたメンバーは、降りた場所を把握していて、交差 する道路を“こちらですよ”とガイドしながら横に入っていきました。
なるほど50メートルぐらい横道を進むと、バスは待っていました(^o^)。
同時に現地日本語ガイドのIさんも出迎えてくれました。
この場所でバスを降りたメンバーの内、女性を含む二人は20キロ地点よりも更に遡上していったようです。
何キロ地点まで行ったか判りませんが、行けるところまで行くと語っていたそうです。
応援した後は、自分の足で走って帰ると言っていましたので、楽しいマラニックのつもりでゆっくりと帰ってくる事でしょう。
私達は早速バスに乗り込み、一路ゴール地点のパナシナイコ競技場を目指して発進しました。
すでにメンバーの携帯電話に連絡があり、25キロ過ぎにはT11クラスでトップに立ったという嬉しい報告がありました(^o^)。
バスの中での私たちの会話は、喜びと共にかなり楽観的な見通しになり、すでにメダルを獲得したかのように、和やかに会話を 続けました。
時計を見ると残り時間から逆算して、もしかしたら高橋選手がゴールする時間に間に合うかもしれないと、Iさんが語りました。
なるほど、急げば間に合うと思えましたが、私達はあの運転手では間に合わないと決めつけ、それでは早く行きましょうという 提案も特にしませんでした。
しかししかし、時計の針を見つめ続けると、かなり余裕があると誰の目から見ても明らかでした。
私たちは意を決して、出来ればゴールに間に合うようにバスを運行してもらいたいと、現地日本語ガイドのIさんに伝えました。
現地日本語ガイドのIさんは、すぐに運転手にギリシャ語で急いでもらいたい旨伝えているようです。
何度かIさんと運転手とのやり取りがありました。
二人はしばらく会話をしていましたが、突然バスの運転手が語気を強めて語り出しました(^^;)。
どうも運転手はかなり怒っているようです(^^;)。“運転手の自分に任せろ”といったニュアンスで、現地日本語ガイドに語りかけ ているようにも聞こえます。
あくまでイメージですが(^^;)。
かなりのスピードでバスは走っているにも関わらず、運転手は両手を広げてジェスチャーを交えてくるので、こちらはヒヤヒヤ していました(^^;)。
しばらく運転手は語気を強めて、Iさんに向かい息を荒げていましたが、少しずつ落ち着いてきました。
私はタイミングをみて、現地日本語ガイドのIさんに、“凄いですね。これだけまくし立てられたら何を言っても駄目でしょ うね。
予定した8キロ地点に行けなかったのもやむを得ないと思いました……。
21キロ地点で会ったときに語気を強めて言ってしまいましたが申し訳ありませんでした”と、私はIさんにお詫びしまし たm(_ _)m。
しかし、運転手はさすがにアテネを知り尽くすベテランでした。
運転手の“自分に任せろ”と語ったと思われる通りに、バスはグングンとスピードを上げて走っています。
凄いスピードです。一般道路でバスが100キロ近いスピードを出すのは日本では経験がありません(^^;)。
私は不幸にも一番前に座っていましたが、広い広い全面ガラスから見える風景は、もの凄いスピードで後退していきました。
車線もかなり強引に変更して進むので、突然前を横切られた他の乗用車などからクラクションがよく鳴らされました(^^;)。
とにかく一般道路をハィウエィのように突進するこの様は、もし事故ったら私は“間違いなく死ぬな”と思いつつ、もしかしたら 高橋選手のゴールが見られるかもしれないという期待も高まってきました。
アテネ市街に入ってからかなり時間も経過して、何となくパナシナイコ競技場が近づいているなという雰囲気になってきました。
そしてフルマラソンコースの車両規制がある地点に出て、もうこれ以上バスは進めないという場所に到達しました。
バスの運転手はあちらの方向にパナシナイコはあると指示しているようです。
私は運転手に感謝している意をジェスチャーを交えて表現しました。
少なくとも私の笑顔と“サンキュー”という言葉は、理解してくれたでしょう。
オコリンボ運転手ながら、キッチリ私たちの希望を叶えてくれました。
どこの世界にも「職人」は居るものですね(笑)。
日本語ガイドIさんの指示に従い、私たちはバスを降りて一目散にパナシナイコ競技場に向けて走り出しました。
もう全力疾走です。すぐに呼吸は上がってきましたがとにかく走り続けました。
N見さんが一番前をキープしています。私もアトミクラブ練習会のインターバル走を思い描き、N見さんに何とか追いつき 追い越そうと必死に食らいつきましたが、離されずについて行くのがやっとでした(^^;)。
1500メートルぐらいインターバル走をやったでしょうか?。ついにパナシナイコ競技場が見えてきました~(^o^)。
路面にブルーラインも見えて、フルマラソンコースに出たようです。
選手もパラパラと通過している姿が見えました。
コース沿いには到達しましたが、多くの観客が沿道を埋めていました。
申し訳なさそうに観客の合間をすり抜けて、通過する選手の状況を観察すると、まだ高橋選手は通過していないと確信出来ま した。
そう確信した私達はコース逆送を開始しました。
数十メートル逆走したところで、高橋選手と伴走の中田選手が走って来る姿が見えてきました(^o^)。
目の前を通過する高橋選手はかなり苦しそうですが、潰れたというレベルでは全くありません。
苦しいながらも、最後の力を振り絞ってゴールのパナシナイコ競技場のスロープを越えていきました。
すでにラスト1キロは切っている距離に到達したのです。
私達は大声で“高橋選手 もうすぐだ 頑張れ~~”とあらん限りの声を振り絞って檄を飛ばしました。
パナシナイコ競技場へ感動のゴール!
フルマラソンのゴール会場となっているパナシナイコ競技場は、1896年の第一回近代オリンピック大会のメイン会場でした。
競技場としての歴史は古く、紀元前331年のパンアテナ大祭の競技場として造られました。
最初は観客席もなく単純な構造だったようですが、ローマ時代に入って大理石の観客席を持つ立派な競技場となったようです。
1895年近代オリンピック開催のために、ギリシャ人富豪アペロフが資金を提供し、古代の競技場に近い形に復元し、収容 人員も5万人規模となりました。
広大な観客席も含めすべて白大理石で出来ています。本当に壮観でした~(^o^)。
観客席が馬蹄形をしているのと、周回トラックが現在の400メートルトラックと比べて、幅が非常に狭くなっているのが大 きな特徴ですね。
高橋選手を路上で見送った後、私達は急いでパナシナイコ競技場に入るべく、入場ゲートに急ぎました。
ゴールシーンを見ることが出来るかもしれないと、とにかく私達は引き続き走り続けました。
もう身体はヘトヘトでしたが、私たちも最後の力を振り絞り、ゴールラインへと突っ走ったのです。
私たちは入場ゲートでチケットチェックを受けてから通過し、パナシナイコ競技場の主要通路部分に達しました。
私は、あまりに慌てていたため周囲をよく見ずに突っ走ったので、競技場施設の一部に膝をぶつけてしまいました(^^;)。
いつもなら立ち止まり、膝をスリスリするのでしょうが、そんな暇はありません。
ズキンズキンと激痛が走りますが、痛みを堪えて石段などを乗り越えていきました。
そしてついに、トラックが見える通路部分に出てきました(^o^)。
私は膝の痛みで立ち止まったりしたものですから、残念ながらゴールライン真横には到達出来ませんでしたが、遠くに高橋選 手がゴールする姿が見えました。
ただ、ゴール手前での他の選手との抜きつ抜かれつの展開が見て取れました。
私は近眼なので(^^;)、ハッキリとは見えませんでしたが、高橋選手が後続の選手に追い上げられてしまった事は、間違いないよ うです。
その微妙な結末に、私は祈るような気持ちで、競技場のゴール地点へと急ぎました。
パナシナイコ競技場にて
ゴールのパナシナイコ競技場です。観客席は全て白大理石で作られています。1896年第一回大会のメイン会場でした。古代競技場とおなじ馬蹄形のスタジアムとなっています。
T11クラスでは高橋選手が最初に姿を見せましたよ~(^o^)。
トラックを後1周してゴールです。 最後の力を振り絞って頑張って!!。
【写真提供Yさん】
相変わらず競技場内を走って進み、ゴール地点が近づいてきました。
私たちのなかで一番早くゴールラインに到達した、N見さんが大きな声で叫んでいます。
何か抗議をするべきだといった事を連呼していました……。
私は噴き出す汗と意識もモウロウで、何が何だか良く判りませんでしたが、N見さんや他のメンバーの会話から、次第に状況が解ってきました。
高橋選手は、残念なことに後ろから猛追してきた選手に、ゴール手前ほんの数メートルの所で抜かれてしまったようです(^^;)。
何と言う結末でしょうか……。
あと数メートルだったのだから……。
なんとか振り切れなかったのだろうか……。
私はゴール後方のかなり遠くからしか目撃してないので、状況の把握が完璧に出来ませんが、N見さんが後から追い抜いた選手 に不正があったと語気を強めて叫んでいます。
“伴走者が引っ張っていた、すぐに抗議する必要がある”と伴走の中田選手に伝えようとしています。
ゴールで待ち構えていたアトミクラブ会員でもある、取材記者のYさんなどと一緒になって、何とか抗議しなければと考えつ つ、何処にどう訴えたらよいかとNさんも思案しているようです。
ゴール後しばらくしてから私たちの前に来て釈明している高橋選手も「残念だった、金メダルでなく銀メダルだった……。」 と、いかにもガッカリしたというため息が漏れてきますし、実際に取材陣に対しても金メダルでなくて残念だったと語ってい ます。
ゴールを目前にして後続の選手に抜かれてしまいました。写真の中のレーンを横断する白線が、ゴールラインです。
【写真提供Yさん】
ゴールを目の前にして、金メダルを逃してしまったのか!?…。ゴール直後、呆然とする伴走の中田選手と、ガックリ肩を落とす高橋選手。(^^;)
【写真提供Yさん】
電光掲示板では高橋選手が1位となっており、応援団席は混乱しました…。(^^;)
ゴール後互いの健闘を称え合う選手と伴走者!。中田選手は、後からゴールしたカルロス選手の手を両手でしっかり握りしめています。私は、アスリートとしての中田選手のこうした姿勢を高く評価していますよ。(^o^)
【写真提供Yさん】
しかし不思議なことに、電光掲示板には高橋選手がトップでゴールしたように表示してあるのです。
いったいどうなっているのか……。
私たち応援団も、勝ったとか、いや負けたのは間違いないなどと、意見は揺れ動きました。
高橋選手が金メダルか銀メダルかの結論は、ゴール後かなり時間が経過してから判明しました。
すでに高橋選手はもちろん、御家族も含めた私たち応援団も、金メダルは逃してしまったという前提で“残念だったね(^^;)” などと会話を交わしていました。
そんなところへ、伴走の中田選手がスタートリストを調べて、抜かれた選手とは違うクラスである事をハッキリ確認したそうです。
それを取材陣のYさんが中田選手に代わり、私達応援団席まで伝えに来てくれました。
高橋選手をゴール直前で抜いた外国選手は、T13クラスのRAMIREZ Daniel選手(メキシコ)選手で、T11クラスの高橋選手 とは違うクラスであったというのが正解でした。
それにしても間違うはずですよ|(^^;)。
T13クラスといえば伴走者はつけてはいけないクラスのはずですよ~。
それから伴走ロープも、競技規則では長さ50センチメートルまでとなっているのでルール違反ではないでしょうか~~。
私達はロープの長さなどは競技規則違反にならないように、慎重に長さを計測していました。
ところが、アテネパラリンピックでは、ずいぶんとアバウトなようです。
T13クラスの選手がロープを持っているという点が、誤解を生む原因となりました。
後で判明した事ですが、T11とT13の違いはゼッケンに目立たないレベルで色分けされていたという話でしたが……。
理由はともかくとして、わずかな時間の間に高橋選手は、天国と地獄を見たのではないでしょうか。
いずれにしても、冷や汗はかきながらも、無事に高橋選手の金メダルが確定しました(^o^)。
私達応援団はあらためて歓喜の万歳を参照しました~~(^o^)。
旗や国旗を打ち振って喜ぶ人、万歳を叫ぶ人、応援団同士抱き合って喜ぶ人……。
高橋選手の夢は、伴走選手の夢でもありました。
そして、高橋選手の夢は、御両親や御家族の夢でした。そして当然私たち応援団の夢でもありましたね。
アテネまで応援に来て、こんな素晴らしい光景を目の当たりに出来るなんて…。
高橋選手や伴走選手も勝利に酔いしれているでしょうが、同じように私たち応援団も酔っぱらってしまいました(^o^)。
高橋選手もたくさんの報道陣に囲まれて、後から後から続くインタビューに、精力的に応じていましたね。
インタビューに答える高橋選手の笑顔が素敵でしたよ(^o^)。
伴走の中田選手も嬉しそうに、高橋選手と肩を寄せ合って、インタビューに答えていました(^o^)。
■フルマラソンのレースストーリーの応援や注目度がどうしても後半からゴールを主軸としてしまいますので、前半伴走の神原選手の 写真や記事が少ないですね(^^;)。
神原選手ご免なさいねm(_ _)m。
オリンピックスタジアムでの表彰式の時には、最大限祝福しますからね。
金メダルが確定し喜び合う高橋選手と伴走の中田選手 おめでとう~(^_^)v。
さあウィニングランに出発だ~~!!。
【写真提供Yさん】
あッ ああああああ~~~~~~~~見ちゃった (*^_^*)
金メダルが確定した高橋選手と伴走の中田選手が私たちのそばに来てくれました。高橋選手おめでとう(^o^)。中田選手ほんとうにお疲れ様でした!!。
報道陣のインタビューに答える高橋選手と伴走の中田選手。プレッシャーにも負けず、重責を見事果たした中田選手も至福の時ですね(^o^)。
【写真提供Yさん】
高橋選手がゴールしてからしばらくすると、他の日本選手も観客の暖かい拍手に迎えられ、次々にゴールしてきましたよ~(^o^)。
まず単独走でT13クラスの福留選手が入ってきました。
足に故障を抱えてのアテネ入りだったとの情報を得ていますので、コース上でトラブルか何か発生したのかもしれません。
彼の年齢は47歳ですが、クラス19選手の中で最高齢の選手でした。
その事だけみても、2時間51分台をキープしたのは立派であると感じました。
かなり疲れた様子でゴールインしましたが、とにかく無事にゴールインしたことを喜びたいですよね。
続いてメダルこそ逃しましたが、見事4位に入りガッツポーズしながらゴールする福原選手!。
彼の口癖は“完全燃焼!”。きっと満足する走りが出来たのですね(^o^)。
そしてパラリンピックシドニー大会の雪辱を果たすべく、過酷なトレーニングを重ねてきた保科選手がゴールに飛び込んできました。
ゴール後、応援団と交わす笑顔がとても素敵でしたよ。
パラリンピック大会での公式記録を残し、また完全燃焼する事が出来て本当に良かったですね(^o^)。
振り返れば、パラリンピックアテネ大会に向けての、厳しい走り込みトレーニングの最中である7月11日に、保科さんから 私に携帯メールがありました。
「保科選手からのメール文」
こんにちわ、保科です。
梅雨が明けたかのような、暑い日が続いています。
走り込みが終わり、これからはスピードをつける練習を入れていきたいと思います。6月の月間走行距離は1,110キロを超えました。
新たな峰を築きました。
シドニー大会での雪辱を果たすべく、実業団選手並の走行距離を自らに課し、黙々と本番に向けて走り続けていたのです。
彼の年齢を思うときに……。走りへの思い入れの強さが、ヒシヒシと私にも伝わってきました。
この様な裏付けのあるトレーニングを陰で重ねてきたが故に、「年齢」というハンディを乗り越え、パラリンピック史上最も過酷なコースで、2時間56分台の記録を 出すことが出来たのです。
保科選手のゴールをもって、視覚障害クラスの日本代表4選手は、無事にパナシナイコ競技場にゴールしました(^o^)。
日本代表選手一人一人が、自らの勝利のためにアテネに向け厳しいトレーニングを重ねてまいりました。
各選手は、実力を出し切りる事に成功し、見事な走りを私たちに見せてくれましたね。
彼ら一人一人の戦いぶりを目の当たりにして、アテネまで馳せ参じた私たち応援団に、大いなる感動を与えてくれましたよ。
そしてテレビで見守る日本の人々にも、大きな感動の渦を巻き起こしたに違いありません(^o^)。
高橋選手、保科選手、福留選手、福原選手、そして車椅子の選手たち、そしてすべての外国選手にも、心より“おめでとう ございました”と申し上げたいですね(^o^)。
T13クラス PEARCE Paul (GBR)選手がゴールです(^o^)。
【写真提供OKIさん】
T11クラス CIONNA Andrea (ITA)選手がスタジアムに入ってきました(^o^)。後一周ですよ、頑張って!!。
【写真提供OKIさん】
T13クラス福留選手! 厳しい戦いでしたが見事な走りを見せてくれました!。
【写真提供Yさん】
T11クラス福原選手と伴走の安田選手。満足のいく走りができ思わずガッツポーズ!。
【写真提供Yさん】
T11クラス保科選手と伴走の沖山選手。ゴールまであとわずか! 頑張って!。
T11クラス SIOUTIS Stergios (GER)選手がゴールしました(^o^)。3時間47分11秒、クラス12位でゴールです!!。
【写真提供OKIさん】
ゴールに、まだまだ続々と選手が入ってきていますよ~。
車椅子の選手もまた、苦闘の末ゴールラインを踏み越えるシーンが見られます。
長い長い42キロという道のりを走り抜いて、苦しいながらもゴールラインをこえるに際しては、すべての選手がささやかながらも、 思い思いのパフォーマンスを演じてくれました(^o^)。
驚異的なラストスパートをかけてゴール後ぶっ倒れる選手や、両手を振り上げ歓喜を表現する選手、そしてゴール後完走 を果たした喜びを伴走者と抱擁して表現する選手、他の選手と抱き合って健闘を称え合ったり……。
彼ら彼女らの選手としての強い思いを垣間見ることの出来るこのゴールシーンは、どの競技会であっても、感動を私たちにもたらしてくれますよね(^o^)。
観客で応援する私たちも、そんな彼ら彼女らの精一杯のパフォーマンスを、最大限の拍手と声援で答え続けました。
それは、観客席のすべての人々と各国代表選手がひとつの喜びを分かち合う瞬間でもあります。
混然としながらも一体となり、選手の動きの反応が波のように観客席を駆けめぐる……。
陸上競技国際大会の華やかなゴールシーンという演目を、私たちは存分に満喫することが出来ました(^o^)。
選手のパフォーマンスも素晴らしかったですが、観客席の応援団も大金をつぎ込んでアテネに来たせいか(^^;)、元気いっぱいの 声援を送り続けましたよ~。
それでは、観客席側にカメラを向けてみましょうね (*^_^*)。
パナシナイコ競技場で待ち受ける、高橋選手の応援団の皆さんで~す(^_^)v。選手らが入場してくる前に記念撮影をしました~。緑色メガホンは会社で準備したものですが、なんと私たちの分も作ってくれてましたよ。メガホンは大活躍でしたね! ありがとうございました(^o^)。
【写真提供YAMAさん】
「高橋選手だ~~!!」男性の声が響き渡り、応援団は一斉に入場ゲートに注目しました。
【写真提供YAMAさん】
高橋選手の金メダルが確定し、大喜びの応援団メンバー。 万歳~万歳~(^o^)。高橋選手のお父さんお母さんも大喜びですね。グリーンの半袖シャツを着ているのが、高橋選手の会社の応援団の皆さんです。総勢30名以上の大応援団となりました。スタジアム一番の集団だったかな。
高橋選手の金メダルも確定し、応援団の皆さんは喜びに沸き返っています(^o^)。Yさんをはじめとする会社の応援団の皆さんです。左側の女性は競技場にたどり着いたばかりのHさんです。
【写真提供YAMAさん】
SさんやHさんも走ったり地下鉄を乗り継いだりで、ようやく競技場に戻ってきました。右端の男性は、15キロ地点まで前進したSさんです。抱き合って喜ぶ高橋選手の奥様とHさん。奥様も高橋選手と共に戦い続けました。思えば初めてのことばかりで本当に大変でしたね、アテネまでの長い道のり、本当にお疲れ様でした!。
抱き合って喜ぶHさんと高橋選手のお母様です(^o^)。御両親をはじめとする御家族の皆様は、本当に嬉しかったでしょうね。郷里へのおみやげ話が、たくさん出来て良かったですよね。(*^_^*)
保科選手の応援団は赤い帽子と黄色のTシャツで統一(^o^)。保科選手と伴走の沖山選手は、応援団の前で盛大な祝福を受けました。保科選手沖山選手ともに、寄せ書きをした国旗を羽織りウィニングランをしていましたよ。
【写真提供OKIさん】
保科選手のゴール後のこの笑顔(^o^)(^o^) 完全燃焼出来たようですね~~。保科選手 の肩を叩こうとしているのはお兄さんです。顔が似てますよね(^o^)。
【写真提供Yさん】
写真後方の集団は福留選手の応援団です。横断幕などをたくさん準備し、観客席で大きな声援を送っていました。
【写真提供Yさん】
「高橋選手のレース後のu1チームへの報告文」
日本の皆様、こんにちは。 高橋勇市です。
すでにテレビや新聞等で、マラソンの結果を知られた方々もいらっしゃる事とは思いますが、目標通りセンターポールに日の丸 を掲げることができました。 これも皆様方の、熱い応援と心温まるサポートのおかげだと感謝いたしております。 本当に、有難うございました。
オリンピックスタジアムに君が代が流れた時、涙が溢れ出てきました。 日本人で良かった。本当に良かった。今日までの努力が結果に繋がりホッとした気持ちの中で、筋肉痛になった足の傷みを感じながらメールしているしだいです。
右アキレス腱を痛めていたため、ゴールまで走れるかとても心配でした。 マラソン発祥の地で走ることができとても幸せです。 前半伴走の神原さん、後半伴走の中田さん、有難うございました。
今日から、新たな目標に向かって走りたいと思いますので、これからも今まで同様、変わらぬ応援とサポートをよろしくお願 い申し上げます。 後日、改めてアテネ報告をいたしますので、とりあえず今日はこの辺で失礼いたします。
2004年 9月28日 高橋勇市
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (JPN) | TAKAHASHI Yuichi | 2:44:24 |
2 | (POR) | FERREIRA Carlos A. | 2:45:07 |
3 | (ITA) | CIONNA Andrea | 2:49:59 |
4 | (JPN) | FUKUHARA Yoshihide | 2:53:56 |
5 | (JPN) | HOSHINA Kiyoshi | 2:56:30 |
6 | (MGL) | JAMBAL Lkhagvajav | 3:03:03 |
7 | (ITA) | DURANTE Carlo | 3:05:01 SB |
8 | (MEX) | ESQUIVEL Clemente A. | 3:20:23 |
9 | (NOR) | GAASEMYR Jorund | 3:22:41 |
10 | (ARG) | ASTORECA Pablo | 3:30:37 |
11 | (GRE) | TSATSAKLAS Nikolaos | 3:44:39 |
12 | (GRE) | SIOUTIS Stergios | 3:47:11 |
13 | (GRE) | STAVRIDIS Konstantinos | 3:47:11 |
(CHN) | ZHANG Zhen | DNF | |
(COL) | MOSSO Martin E. | DNF | |
(MEX) | ACOSTA Pedro | DNF |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | TAKAHASHI Yuichi | (JPN) | 2:37:43 Kasumigaura (JPN) | 18 APR 2004 |
PR | FERREIRA Carlos | (POR) | 2:38:27 Sydney (AUS) | 29 OCT 2000 |
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (RUS) | POMYKALOV Ildar | 2:38:45 |
2 | (AUS) | DANIELL Roy | 2:42:17 |
3 | (LTU) | BALSYS Linas | 2:43:55 PB |
4 | (MEX) | RAMIREZ Daniel | 2:44:23 |
5 | (MEX) | BERISTAIN Moises | 2:44:24 SB |
6 | (GBR) | PEARCE Paul | 2:46:20 |
7 | (KEN) | NGORIALUK Joseph L. | 2:49:08 |
8 | (SVK) | AMBROZ Jozef | 2:50:38 |
9 | (ITA) | COCCHI Fabrizio | 2:51:16 |
10 | (BRA) | SANTOS Aurelio | 2:51:36 |
11 | (JPN) | FUKUDOME Shiro | 2:51:56 SB |
12 | (GBR) | FARNELL Mark | 2:57:16 |
13 | (MDA) | CIUMAC Nicolai | 3:09:03 SB |
14 | (KAZ) | SEITOV Zeinolla | 3:13:35 |
(CHN) | QI Shun | DNF | |
(LTU) | BARTKENAS Kestutis | DNF | |
(MDA) | LISNIC Igor | DNF | |
(POL) | CHMURZYNSKI Tomasz | DNF | |
(SVK) | SLUKA Anton | DNF |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | TALBOTT Carlos | (USA) | 2:22:55 Seoul (KOR) | 24 OCT 1988 |
PR | TALBOTT Carlos | (USA) | 2:22:55 Seoul (KOR) | 24 OCT 1988 |
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (ITA) | DE VIDI Alvise | 2:53:38 |
2 | (GER) | STROBEL Stefan | 2:57:50 |
3 | (MEX) | NAVARRO Edgar | 3:13:42 |
4 | (GER) | OPPOLD Thorsten | 3:27:23 |
5 | (ITA) | D'AGOSTINI Paolo | 3:48:28 |
6 | (NOR) | Mikkel Gaarder | 3:38:59 |
(GER) | GEILING Dieter | DNF | |
JOHANSSON Tim | DNF |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | KOBERLE Heinrich | (GER) | 2:23:08 Berlin (GER) | 24 SEP 1995 |
PR | KOBERLE H. | (GER) | 2:32:56 Barcelona (ESP) | 13 SEP 1992 |
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (JPN) | TAKADA Toshihiro | 2:00:02 PB |
2 | (AUT) | GEIERSPICHLER Thomas | 2:06:10 |
3 | (CAN) | GEREIN Clayton | 2:14:26 |
4 | (JPN) | ITO Tomoya | 2:20:12 |
5 | (SWE) | VESTERLUND Per | 2:26:09 |
6 | (USA) | BURNS III Herbert | 2:37:36 |
7 | (ESP) | PLA Ramon | 2:58:44 |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | GEIERSPACHLER Thomas | (AUT) | 1:48:21 Padova (ITA) | 25 APR 2004 |
PR | GEREIN C. | (CAN) | 2:02:24 Barcelona (ESP) | 13 SEP 1992 |
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (AUS) | FEARNLEY Kurt | 1:25:37 PB |
2 | (CAN) | SMITH Kelly | 1:29:39 |
3 | (POL) | HAMERLAK Tomasz | 1:31:01 |
4 | (MEX) | GORDIAN Aaron | 1:31:03 |
5 | (FRA) | JEANNOT Joel | 1:31:42 |
6 | (JPN) | HANAOKA Nobukazu | 1:31:50 SB |
7 | (SUI) | FREI Heinz | 1:32:04 |
8 | (USA) | HEILVEIL Jacob | 1:33:11 PB |
9 | (JPN) | SASAHARA Hiroki | 1:33:55 |
10 | (JPN) | SOEJIMA Masazumi | 1:34:59 |
11 | (FRA) | FUSS Alain | 1:35:32 |
12 | (GER) | BRUNNER Ralph | 1:35:39 |
13 | (CAN) | BERGMAN Alan | 1:37:40 |
14 | (FRA) | LEMEUNIER Denis | 1:37:41 |
15 | (RSA) | SCHABORT Krige | 1:39:53 |
16 | (JPN) | HIROMICHI Jun | 1:40:24 |
17 | (MEX) | VELASCO SORIA Martin | 1:41:00 |
18 | (RSA) | VAN DYK Ernst | 1:41:59 |
19 | (AUS) | NUNNARI Paul | 1:43:16 |
20 | (SLO) | SEVER Marko | 1:43:41 |
21 | (ESP) | PUIGBO Roger | 1:43:50 |
22 | (GER) | FIGL Robert | 1:45:11 |
23 | (CAN) | FILTEAU Michel | 1:48:17 |
24 | (USA) | HOLLONBECK Scot | 1:49:16 |
25 | (AUT) | FERCHL Gottfried | 1:50:19 |
26 | (NOR) | SLETTEN Oivind | 1:54:37 |
27 | (ESP) | ARZO Vicente | 2:00:50 |
28 | (USA) | BYERS Tyler | 2:01:09 |
29 | (TUR) | CANTAY Omer | 2:06:02 |
30 | (CYP) | GAVRIIL Giannakis | 2:18:22 |
31 | (KAZ) | TETYUKHIN Yevgeniy | 2:35:45 |
32 | (KAZ) | USSOLTSEV Sergey | 2:39:54 |
(TUN) | BELKHIR Mohamed Farhat | DNF | |
(ESA) | RIVAS William | DNS | |
(JPN) | YASUOKA Choke | DNS | |
(SUI) | NIETLISPACH Franz | DNS | |
(USA) | BLEAKNEY Adam | DNS | |
(USA) | GEORGE Joshua | DNS |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | FREI Heinz | (SUI) | 1:20:14 Oita (JPN) | 31 OCT 1999 |
PR | NIETLISPACH Franz | (SUI) | 1:24:55 Sydney (AUS) | 29 OCT 2000 |
Rk | Npc | Athlete | Result |
---|---|---|---|
1 | (JPN) | HATANAKA Kazu | 1:49:26 |
2 | (JPN) | TSUCHIDA Wakako | 1:50:13 |
3 | (USA) | BLAUWET Cheri | 1:50:15 |
4 | (SUI) | HUNKELER Edith | 1:56:21 |
5 | (SUI) | GRAF Sandra | 1:59:09 |
6 | (CAN) | ROY Diane | 2:02:42 |
7 | (TUN) | SIFI Messaoud | 2:06:00 PB |
8 | (MEX) | REYES Ivonne | 2:06:17 PB |
9 | (AUS) | DAWES Christie | 2:08:25 |
10 | (TUN) | CHAMSI Souad | 2:08:38 |
11 | (GHA) | MOHAMMED Ajara | 2:08:40 |
12 | (RUS) | DEZHUROVA Irina | 2:09:36 |
13 | (MEX) | HERNANDEZ Ariadne | 2:14:29 |
14 | (HUN) | DORA Krisztina | 2:25:52 |
15 | (CRO) | RUZNJAK Mirjana | 3:25:22 |
(TUN) | BERRI Samira | DNF | |
(USA) | NIBLEY Miriam | DNS |
name | NPCoode | Record Location | Datet | |
---|---|---|---|---|
WR | TSUCHIDA Wakako | (JPN) | 1:38:32 Oita (JPN) | 11 NOV 2001 |
PR | HANSEN C. | (DEN) | 1:42:48 Barcelona (ESP) | 13 SEP 1992 |
「練習量 誰にも負けぬ」 〔輝いてコーナー内〕
【読売新聞】平成16年9月27日
「アテネの風になりました」。
マラソン男子(視覚障害1)で金メダルを獲得した高橋勇市(39歳)は、2時間44分24秒で走りきった後、 気持ちよさそうに額の汗をぬぐった。前回シドニー大会の金メダリスト、カルロス・フェレイア(ポルトガル)との一騎打ちとなった。
勝負に出たのは、上り坂の27・28キロ。伴走者の中田崇志(24歳)が、前を走るフェレイラ選手の足が重くなった事に 気付いた。「勝負です」と告げた。高橋選手は無言だったが、走りが明らかに変わった。スパートをかけ、34キロを過ぎたころには、 伴走者つきのランナーは、前に一人もいなくなった。
午前10時50分ころ、ゴールの競技場に姿を現した高橋は、さすがに苦しそうだった。
しかし、ゴール後、観客席から駆け寄った妻の嘉子さん(37歳)と固く抱き合った。毎朝、マッサージ師として勤める東京・春海の会社に出かける際は、27階の事務所まで階段を駆け上がる。
退社後は、スポーツジムで汗を流す。週末は極力、各地の市民マラソン大会に参加する。
4月には、茨城県土浦市の大会で、全盲クラスでの今季世界最高、2時間37分43秒マーク。
先月にも北海道でフルマラソンを走った。練習量では誰にも負けない。初めての大舞台にも、自信を持って臨んだ。
高橋の目標は他にもある。健常者のマラソン大会で勝つことだ。
すでに来年2月の別府大分毎日マラソンの出場権を得ている。
「障害者でもやれる、ということを示せば、障害者に対する社会の理解はもっと進むはず」
(小島 剛)
「男子マラソン高橋選手「金」けが乗り越え実力発揮」
【読売新聞 大曲支局】平成16年9月27日
横手の応援団「盛大に迎えたい」
アテネパラリンピック十日目の二十六日(日本時間同日午後)、男子マラソン(視覚障害1)で横手市出身の高橋勇市選手(39) が優勝、金メダルに輝いた。2時間44分24秒だった。大けがを乗り越え、世界記録保持者として迎えた初のパラリンピック。実力を存分に発揮し、有終の美を飾った。
高橋選手は、大曲農高二年時、白点状網膜炎を発病し、視力が低下し始めた。その後、マッサージ師の資格を取得。実業団の 陸上選手のトレーナーを務めたことがきっかけとなり、一九九六年十二月、三十一歳で初めてマラソンを走った。
その後、全盲となってから、本格的に競技に取り組み、順調に記録を伸ばしていった。
しかし、九九年末に走りすぎが影響し、大腿骨を疲労骨折。入院生活は三ヶ月にも及び、シドニー・パラリンピックの選考レース は、走ることすら出来なかった。復帰後、アテネを目指して猛練習を開始。100キロのウルトラマラソンで六度、伴走者を務めた横浜市都築区の二階堂隆さん(48) は「練習熱心で、寝ても覚めても、いかにして速く走るかを考えていた。粘り強さ、絶対にあきらめない姿勢は素晴らしかった」 と振り返る。
高橋選手は、二〇〇三年二月の勝田全国マラソン大会(茨城県ひたちなか市)で、2時間45分23秒の日本記録を樹立。
今年四月十八日の国際盲人マラソンかすみがうら大会(茨城県土浦市)では、2時間37分43秒の世界新記録で優勝し、日本 代表の座をつかんだ。地元、横手市民らで結成された「高橋選手を応援する会」の土田隆樹会長(52/同市黒川)は「今までの努力が実り、金メダル の夢がかなった。言葉にならないほど嬉しい。地元に戻ってきたら、市民を集めて盛大に迎えてあげたい」と偉業をたたえていた。
「中盤粘り高橋、金メダル」
【朝日新聞】平成16年9月27日[許諾NO.20042413]
◇伴走者も力走、喜び3倍 視覚障害マラソン(ハイライト)
13キロでシドニー金のフェレイラ(ポルトガル)が加速し、世界記録を持つ高橋が遅れた。20キロで伴走者が中田に代わっ たとき、フェレイラは50メートル先にいた。
5年前から全盲の高橋に、その差は見えない。
ロープでつながる伴走者が目であり、フォームを見るコーチ役になる。「ロープを持ってないような気持ちいい感じで走れる」。中田は相棒の好調を感じ取った。
26キロ。アテネ五輪金メダルの野口みずきが仕掛けた「名所」が来た。「ここが勝負」。中田が声をかける。「僕は疲れるのでしゃべらない」が信条の高橋から返事はなかったが、ピッチが上がる。 27キロで抜いた。
ゴールのパナシナイコ競技場に入ったとき、選手が迫った。「逃げろ」。中田は叫んだが、ゴール前で抜かれた。2位かと観念 したが、抜いたのが同時に走る弱視クラスの選手と判明。2位とは43秒差の金メダルだった。
「ラストの走力はないので仕方ない。(4年後の)北京で頑張ればいいと切り替えてました」。
ゴール直後の気持ちを冗談交じりに振り返った高橋が、真顔で言った。「神原さんに早く伝えたい」。20キロまで伴走してくれたパートナーへの感謝だ。視覚障害者マラソンは伴走者がブレーキに なれば夢は届かない。
世界記録保持者の伴走という重圧をはねのけた2人と高橋は、3倍の喜びを分かちあった。
(稲垣康介)
「高田が3冠「夢の中に…」 男子車いすマラソン」
【朝日新聞】平成16年9月27日
車いす男子マラソン(T52)で、高田が5000メートル、400メートルに続く金メダル。3冠達成だ。 「すがすがしく走れた。夢の中にいるみたいです」
15キロ付近で好敵手を抜くと独走。観衆の声援で背後の選手の動きを探り、長い上り坂はジグザグで登り切った。
2冠の後、800メートルには出ず、マラソンに専念した。足の不自由な自分が街中を思い切り走れる楽しさが、競技に打ち込 む原点だったからだ。
この日は最新式ではなく、陸上を始めた8年前から乗り続けている車いすを選んだ。「こいつとアテネを走りたかった」
「エース2人快走、金と銀 車いすマラソン」
【朝日新聞】平成16年9月27日[許諾NO.20042413]
アテネの難コースを、日本のエース2人が見事に走り抜けた。26日に開かれたパラリンピックの女子車いすマラソン。
シドニーの銀メダリスト、畑中和(35)=神戸市=と、世界記録保持者の土田和歌子(29)=東京都多摩市=が、金、銀の メダルを獲得した。
畑中が右手を突き上げてゴールした瞬間、会場から「畑中コール」がわき起こった。47秒後、土田がゴール。2人で肩を抱き 合った。
畑中のペースが上がったのは27キロ地点の上り坂。そのまま後続を引き離して独走。32キロからの下り坂をブレーキなしで 駆け下りた。五輪女子マラソンで優勝した野口みずきがスパートをかけたのは25キロ過ぎ。同じような展開だった。
高低差200メートル以上。日本選手にとって、車いすマラソンでも不利なコースと言われていた。
体重の軽い日本選手は、下り坂でどうしてもスピードに負ける。体重37キロと小柄な畑中は、野口と同様、「上り坂が勝負」と 決め、地道に坂道を走り込んでスタミナをつけた。「うわさに聞いていたより、上りは大したことなかった」。
レース後の畑中は平然と言った。21日の5000メートルでは土田と接触、転倒して棄権。その無念を晴らした。
一方の土田は、畑中と正反対の方法で頂点を目指した。
4年前のシドニーで、マラソン銅メダル。世界に勝つため、「環境改善」と「肉体改造」が必要だと感じた。01年にプロ転向。筋力トレーニングに打ち込んだ。シドニーで39キロだった体重は48キロになった。
調整は万全だった。だが、畑中を追いきれなかった。「ラドクリフが36キロ地点で止まったのが、こういうことかとわかった。
上りがジャブのように利いていた」。レース後、土田は振り返った。五輪の野口の記録は2時間26分20秒。そのコースを、畑中は1時間49分26秒で駆け抜けた。しのぎをけずった2人は、 再び次の舞台、北京を目指す。
(鈴木毅)
パルテノン神殿などアテネ市内観光
アテネと言えばアクロポリスのパルテノン神殿ですよね(^o^)。
パラリンピック応援に限らず、アテネに旅行した方が必ず立ち寄るのがこのパルテノン神殿ではないでしょうか。
私達の応援ツアーでも、初期の段階からアテネ市内観光は重視していました。
午前中はフルマラソンの応援をして、午後パルテノン神殿などの市内観光を予定しました。
アクロポリスは狭いところですが、丘の上にあるので坂道もありますし見所が多いと聞いていたので時間はタップリと確保しました。
結果としては、フルマラソンで高橋選手が金メダルをゲットしたので、午後は皆さんがとてもハッピーな雰囲気で市内観光を する事が出来ました。
パナシナイコ競技場からバスに乗り込み、10分ほど走ったところにアクロポリス観光をする為の駐車場がありました。
そこからパルテノン神殿のある丘の上まで坂道を登ることになります。
駐車場からパルテノン神殿の一部が見えていますので胸もワクワクしてきました(^^;)。
アクロポリスの丘の上に最初の神殿が建てられたのは紀元前12世紀だと言われています。
度重なる戦争と外国軍の侵略と破壊を受け、最後には1687年にヴェネツィア軍の攻撃でほとんどの建物が崩壊し、以後は19世紀になって本格的に再建されるまで、荒れ果てたままになっていたそうです。
このように、アクロポリスは戦争による破壊と再建を繰り返してきました。
建立も古いですが、破壊による再建も古いですね。最初の再建はなんと紀元前447年だそうです。
それから現在に至るまで、破壊と復興再建が繰り返されているそうですよ。
坂の途中の右側から大音響の現代的な音楽が聞こえてきました。
『ヘロド・アティクス音楽堂』という石造りの音楽堂が見えてきました。
アテネの大富豪ヘドロ・アティクスが無き妻の思い出に建造したそうです。半円形のオーケストラ席と観客席は32段ある ようです。
夏には、ここでアテネ・フェスティバルが開催されるそうですよ(^o^)。
これら劇場は、アテネなどの都市国家には不可欠な重要な施設だったようです。
アクロポリスの南側斜面には、二つの大きな劇場があります。
このヘロド・アティクス音楽堂は、ローマ期の161年に建造され、もう一つのディオニソス劇場は紀元前6世紀に建造され ギリシャ最古の劇場だそうです。
ヘロド・アティクス音楽堂から聞こえる大音響の音楽は、古代の音楽堂を使用して音楽祭を開催する予定があるようで、そのリハーサルのような事を しているようですよ。
それにしても音響効果が凄いです(^o^)。
言葉ではちょっと表現出来ないほどの素晴らしい音響ですね。
谷底にある舞台からの音がエコーが強くかかったように大音響となって響いて聞こえるのが良く判ります。
当時この音楽堂でいろんな催し物が開催されたものと思われますね。
そのまま階段状の坂道を上り続けますと、ついに前門とよばれるトリス式とイオニア式円柱で出来た壮大な建造物が現れてきました。
ブーレエの門の上にあり、プロピレア(聖域への入り口の意)とよばれるアクロポリスへの入り口です。
北翼、中央翼、南翼に分かれていますが、円柱の配列の調和が本当に壮大で見事でしたよ(^o^)。
積み上げてある柱などはすべて大理石で出来ているというのですから驚きですね。
機械で削って柱状にしたのでもありません。あくまで人力により加工したのでしょうから当時の建築技術には恐れ入っていまいます。
それにしても凄い人数の観光客です。アテネパラリンピック開催期間中という影響もあるでしょうが、毎日途切れることなく 世界中から観光客が訪れているようですね。
アクロポリスとは、“高いところにある都市”という意味だそうですが、実際前門を通過して聖域に入りますと、その意味が実感できますね。
丘の上の至るところにビューポイントがあり、アテネ市街や遠景を楽しむことが出来ました。
やはり本命のパルテノン神殿には感動しましたね(^o^)。
古代時代は当然の事ながら、機械もなく道具といっても原始的なレベルであったと思われますが、大きな大理石を切り出し、加工して見事な神殿を作り上げたのですから、その遠大な作業と技術に脱帽でしたね。
アクロポリスのメインの建造物であり、アテナ女神を祀るパルテノン神殿は、多くの技術者を結集して作られたといわれ、 ドリス式建築の最高傑作だとされています。
白い大理石で出来ており、神殿の大きさは幅約31メートル、奥行き70メートル、そして46本の巨大な柱に囲まれて います。
各柱の高さは10メートルにもなります。私たちも知っているように、柱の中央部を少し膨らませたエンタシス技法が採用され ていますね。
そのせいかどうか分かりませんが、柱がずっしりとした重みを感じました。
“古代にすでにこれだけの技術が存在した”という事実に、私たちは心を打たれました。
私たちは、夜にはオリンピックスタジアムに戻り、高橋選手などのフルマラソン表彰式を見学する手はずとなっていますが、 それまでには時間がタップリとあるので、私たちは心ゆくまでアクロポリスの丘の上で、パルテノン神殿をはじめとする古代 遺跡群を見学して回りました。
アクロポリス観光
駐車場から見えるパルテノン神殿! 胸が高鳴りますね。(^o^)
ヘロド・アティクス音楽堂です。今もアテネ・フェスティパルの主会場となり、音楽祭などに使用されるようです。聞こえてくる音響は素晴らしく感動的でしたよ(^o^)。
アクロポリスから見下ろす古代アゴラ方面のアテネ市内の様子です。
少しアップして見ますと、ニンフの丘の上にある天文台が見えます。
アクロポリスから見下ろすアテネ市内の様子です。リカビトスの丘も見えます。
アテネの市街です。中央のベージュ色の大きい建物は国会議事堂です。
東側から見たパルテノン神殿です。現在も復元工事が続行しているのがわかります。
パルテノン神殿の前で全員で記念撮影です。古代ギリシャ時代の荘厳な建築群を目の当たりにして感激していますよ~。(^_^)v
『アレオス・パゴス』の丘の上で記念撮影です。背面はアクロポリスの断崖です。左からTさん、高橋選手の奥様、Nさん、Sさんです。(^o^)
マラソン表彰式
アクロポリス観光を十分堪能しました(^o^)。
そしてアテネ市街を離れ、日も暮れて照明が入り始めた頃、私たちはオリンピックスタジアムに到着しました。
目的は、もちろん高橋勇市選手ら日本選手のフルマラソン表彰式を見学するためですよね~(^o^)。
視覚障害と車椅子とで、4選手の表彰がありますから~。
今日のスタジアム1階席については、かなり混んでいましたね。
でもスタジアム到着が早めだった事もあり、選手らに声の届きやすい一番前の席を集団で確保できました。
高橋選手の会社応援団のメンバーも入れますと、30名以上の応援団です。
とくに高橋選手の会社応援団は、濃いグリーンの半袖シャツに統一していますので、遠目に見てもかなり存在感を示してくれ ましたね。
私たちは、一番前の席を中心に集まりその中心には、高橋選手が栃木県小山市で病院勤務をしているときの患者さんで、F田 さんと言う方が、手作りで作り上げたという大きな旗を広げて展示しました。
『u1』と大きくロゴマークが表示されると共に、ローマ字でタカハシと書かれています。
沿道での応援の時も、ガードレールに展示して応援の一役を買ってもらいましたが、ここでも存在感のある旗として、立派な 役割を担ってくれました。
この旗は一部Fさんの手作りという事で、結構時間もかかったと聞いています。
F田さん本当にありがとうございました。
スタジアムではかなりの存在感がありましたよ~(^o^)。
いよいよフルマラソン競技の表彰式が始まりました(^o^)!。
17時12分車椅子競技の[ Women's Marathon T54-Final ]の表彰がアナウンスされました。
このクラスで注目されたのはもちろん、畑中選手と土田選手がワンツーフィニッシュを飾ったという事でしょう。
シドニーでは、それぞれ銀メダルと銅メダルでしたから、それぞれが一個上のクラスのメダルをゲットしたという訳ですね(^o^)。
畑中選手は、5日前の5000メートルトラック競技で転倒してしまい、精神的にかなり闘争心を削がれたと聞いています。
おそらく転倒によるダメージも残っていた事でしょう。
アスリートならそうした状況下で気持ちを切り替えることの困難さを承知しているはずです。
そうしたコントロールの難しい状況を乗り越えてのゴールライン到達でした(^o^)。
それにしてもシドニー大会以降、4年間も走力を維持してきたこと自体、本当に驚きですよね。
畑中選手はアテネで4大会連続のパラリンピック出場ですが、シドニー大会以降に一度引退を表明して1年ぐらいブランクが ありました。
しかし、アスリートとして燃え尽きていなかったのか、再度競技生活に戻っての劇的な優勝でした。
土田選手はスポンサーが複数社ついているプロの競技者です。
日本の障害者スポーツ界で、スポンサーがつく選手はごく限られていますが、土田選手のようなプロがこれから増えてくれることを 祈りたいですね。
ところで風の便りに聞くところによると、お二人はかなりむき出しのライバル意識を持っているとのこと(^^;)。
そんなところに走力維持のポイントもあるかもしれません。
アスリートにとって “強力なライバルの存在がいかに大切なものであるか!”。
ここで改めて語る必要もありませんね。
続いて17時18分からは[ Men's Marathon T52-Final ]の表彰が始まりました。
このクラスにエントリーした高田選手は、陸上400mと5000mに続き、このフルマラソンでも金メダルをゲットし 、なんと三個の金メダルを獲得しましたよ(^o^)。
2位に6分以上の差をつけてブッチギリの優勝でしたね。
本当におめでとうございます(^_^)v。
そして17時30分より、いよいよ視覚障害クラスの表彰が始まりましたよ(^o^)。
ガイドに促されるように、表彰台に視覚障害の選手と伴走者が並び始めました。
応援席から表彰台まではかなりの距離があるので、高橋選手などの表情は分かりませんが、時折巨大なスクリーンに彼らの 姿が映し出されますので、彼らの動きが手に取るように把握できました。
オリンピックやパラリンピックでの表彰式ではお馴染みのパターンで、メダルの授与が始まりました。
[ Men's Marathon T11-Final ]
金メダル 高橋勇市 選手 (JPN/日本)
銀メダル FERREIRA Carlos A.選手 (POL/ポルトガル)
銅メダル CIONNA Andrea選手 (ITA/イタリア)
メダルの授与、そして花束の贈呈。そして日本の国旗掲揚……。
ああ、なんと素晴らしいシーンでしょうか……。
国旗掲揚と共に、日本の国歌がメインスタジアムに大音量で流れています……。
高橋選手は、“センターポールに日の丸を揚げる”事を第一目標としてトレーニングを重ねて参りました。
高橋選手のアテネ行きが確定したのは、前年の第4回 全日本盲人マラソン選手権 兼アテネパラリンピック派遣選手選考会 でブッチギリの優勝を勝ち取った事により決まりましたが、アテネ行きが決まってからというもの、事ある毎に高橋選手は、 “センターポールに日の丸を揚げる”と外部に向かって公言して参りました。
強力なライバルも複数存在するし、当日のコンディションでどのようにでもレースは展開するはずですから、金メダルを獲得 する事の難しさも、容易に想像できます。
ですから、私たちは彼の軽く発する金メダルへの挑戦を、心なしかハラハラしながら聞いていました(^^;)。
しかし、しかし、彼はそんな重圧を見事にはねのけ、公言通り金メダルを見事に獲得したのでした。
この事だけを見ても、波ならぬ精神力を評価しないわけにはいきません。
幸い金メダルを獲得しましたが、彼のここに至るまでのトレーニング環境は、必ずしも恵まれているとは言えませんでした。
トレーニング環境、生活環境などの悪条件を、出来る範囲で克服し乗り越えて、獲得した価値のある金メダルでした。
私たち応援団の中には、高橋選手の日頃のトレーニングの為に伴走を継続してきた方が大勢いらっしゃいます。
また、伴走ではなく高橋選手のサポーターとして、多くの時間を割いてくださった方もまた大勢いらっしゃいます。
更に、アテネには来られなかったけれど、日頃高橋選手のサポートをしている大勢の人々が、東京や秋田その他各地にて、彼の勝利を心か ら祝福してくださっているはずです。
アテネで伴走した中田選手そして神原選手は、私たち伴走者の代表として、見事に重責を果たしてくださいました。
彼ら三人で勝ち取った優勝の喜びは、私たち応援団全てのメンバーで共有する価値のあるものです。
アテネに応援団として来て、フルマラソンコースを二度も試走したN見さんなどは、パナシナイコ競技場で高橋選手が金メダル を獲得したことが確定した時に、顔をクシャクシャにして号泣していました(^^;)。
高橋選手の金メダルは、高橋選手自身はもちろん、私たち伴走者やサポーターにとっても、共有する夢であったのです。
私たちにとっても自分の夢と思えたから、高橋選手と共にここまで戦い続けてこられたのです。
今日こそは、勝者として外部に向かって、堂々と勝利を宣言したく思います。
高橋選手に “おめでとう(^o^)”、そして自分自身にも “おめでとう(^o^)” と……。
マラソン競技表彰式
ギリシャの国旗がはためくスタジアムです。間もなく表彰式が始まります。
応援に持参した大きな旗も展示しました。この旗に中田選手らが気付いてくれるかな?。この旗は、栃木県小山市在住のF田さんというご婦人が、仕立てて下さいました。F田さんフルマラソン応援でも活用させて頂きましたよ。有り難うございました(^o^)。終日活発に動き回ったせいか、応援団の皆さんも心なしかお疲れ気味かな…。(^^;)
会社応援団の皆さんで~す(^o^)。皆さんが高橋選手の表彰式を、いまかいまかと心待ちにしていましたよ。
【写真提供YAMAさん】
[Marathon-T54]国旗掲揚を見守る金メダルの畑中選手と銀メダルの土田選手です。おめでとうございます。(^o^)
観客席にて車椅子/T54畑中選手と会話しました。金メダルおめでとうございます(^o^)。5000m競技では激しく転倒してしまい心身共にダメージを受けましたが、そのアクシデ ントを乗り越えての見事な金メダルでした!!。
伴走の中田・神原両選手と共に高橋選手が金メダルの授与を受けるところです。
【写真提供Yさん】
伴走の中田・神原両選手と共に高橋選手が金メダルの授与を受けたところです。
【写真提供Yさん】
高橋選手と伴走の中田選手、神原選手です。三人の力で見事に金メダルをゲットしました。おめでとうございます。(^o^)
【写真提供Yさん】
高橋選手や伴走者も観客の拍手に答えて手を振っています。
高橋選手の目標であった“センターポールに日の丸を揚げる”夢が叶いましたね(^o^)。高橋選手は涙を流しながら日本国旗が掲揚されるのを見守ったそうですよ~。
満面の笑みを浮かべて観客の拍手に答える高橋選手と神原選手です。前半伴走の神原選手、ペース采配バッチリでしたよ(^o^)。本当にお疲れ様!。
【写真提供Yさん】
高橋選手らは、私たちの大きな声援に気付いて手を振ってくれました。高橋選手!そして伴走の神原選手・中田選手、本当におめでとう~。(^o^)
【写真提供YAMAさん】
高橋選手金メダル授与の時は、観客席にいる私たちも喜びに沸き返りました。
【写真提供Yさん】
アテネ市内で祝勝会を開催
地下鉄2号線アクロポリス駅(Akropoli)から徒歩5分のところにあるレストラン『ディオニソス(Dyonisos-Zonar's)』 というレストランで祝勝会を開催することになりました。
アテネ市内でギリシャ料理を楽しむに際しては、ガイド本などに必ず登場するといってもよい有名なレストランのようですよ(^o^)。
1階はカフェ、2階はゆったりとした空間のレストランとなっていて、お店の場所はアクロポリスを正面?から眺める絶好のビュー スポットにありました(^o^)。
テーブル席から見上げるアクロポリスの素晴らしい景観に、ほとんどの人が感激の言葉を漏らしたほどですからね。
下の写真は、そのお店から撮影したものですが、すでに夕焼けに照らし出されるアクロポリスが、とても幻想的でした。
そして夜の帳がおりますと、アクロポリス全体がライトアップされ、神殿は一段と幻想的な雰囲気となり、そんな素晴らしい 眺望を満喫しながらの祝勝会は、本当に至福の一時でしたね(^o^)。
ギリシャの地酒やギリシャ料理がたくさん並べられたテーブルで、高橋選手や伴走の中田選手、神原選手の到着を、私たちは 喉を鳴らしながら待っていました。
しばらくすると、お店の外で拍手がたくさん沸き上がりました。
開け放たれた窓の横に座っていた私たちにも、その拍手とざわめきはよく聞こえました。
見ると高橋選手と伴走の神原・中田選手がタクシーから降りて、お店の玄関アプローチを入ってきたところでした。
テラス席に居合わせたお客様の祝福を、思いがけず受けたというわけですね(^o^)。
ほどなくして2階に上がってきた彼らを、私たちは万雷の拍手で迎入れました。
30名余りの応援団が一斉に拍手を浴びせたのです。
高橋選手や伴走の中田選手、神原選手も満面の笑みで、私たちの祝福を満面の笑みで答えてくれました。
この場所に来て、私たちの盛大な祝福を受けて初めて、金メダルを実感できたようですよ~(笑)。
彼らも着席して、乾杯の音頭と共に祝杯を挙げました。
そして、次々とテーブルに並べられるギリシャ料理やワインを思い思いに味わいました。
お腹も膨らみ、顔も赤く染まってくるほどに、席の移動も活発となり、宴は尻上がりに盛り上がっていきましたね~~(^o^)。
ここに居合わせる皆が、共に力を結集して勝ち得た金メダルですよね。
同じレベルで勝利の喜びを共有し、達成感をも皆で分かち合いました。
時が経つほどに高橋選手と共に記念撮影したり、メダルを触ったり、メンバー間で労をねぎらったりと……。
あちこちで笑い声が聞こえ拍手が沸き上がり、それはもう賑やかにそして華やかに、勝利の酔いに身を任せ、アルコールの酔いにも 身を任せ“W酔い”に意識も薄れていく……(^^;)
私たちは酔うほどに時の流れを忘れてしまい、パルテノン神殿の女神も苦笑していたとさ (*^_^*)。
レストラン『ディオニソス』の案内チケットです。アテネ市内では、かなり有名なレストランのようですよ~(^o^)。写真のように2階客席からの眺望は素晴らしく、ライトアップされたアクロポリスの夜景は古代にタイムスリップしたかのように幻想的でしたね。
夕日を浴びるアクロポリスのパルテノン神殿です。神殿のすぐ横にあるレストラン『ディオニソス』の2階席から撮影したものです。ライトアップされたアクロポリスの撮影は失敗しましたが、幻想的で素晴らしい景観でしたよ。(^o^)
祝勝会会場のレストランに到着した高橋選手と伴走の中田・神原両選手です。神原選手の手には表彰式での花束が。高橋選手の首には、光り輝く金メダルがかけられていましたよ。(^o^)
【写真提供YAMAさん】
乾杯のあとギリシャ料理や地元のワインに舌鼓をうちました。美味しかったですね~。右端の神原選手のお母様も、本当に楽しそうに食事をしていました。(^o^)
【写真提供YAMAさん】
レストランでは、総支配人までもが国旗にサインを要望してくれました。(^o^)
【写真提供Nさん】
盛りだくさんのギリシャ料理やワインなどを沢山いただいて、最後は全員で記念撮影(^o^)。私達は早朝から慌ただしく歩いたり走ったり“追っかけ”応援をしましたが、高橋選手が念願の金メダルをゲットし、 応援の私たちも思い出深い一日となりましたね。(^o^)
美酒に酔った皆さん! 長~~い一日、本当にお疲れ様でした~。 (*^_^*)
【写真提供YAMAさん】
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